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講師コラム:今井 繁之 先生

「リーズナブルな物の見方、考え方」


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第1回 『大事なのは考える力』 (2008/4/7)
 
 先日、久し振りに会った友人が「最近の学生は我々の若い頃と違って自分で考えようとしない。実に嘆かわしい」と私に言う。ちなみに彼の職業は大学教授である。

 「どうしたんだ?」と聞くと、彼は「最近の学生達にレポート提出を宿題として出すと、不明なことがあれば、かつての自分達のように辞書を引くとか図書館で調べるのでなく、今ではインターネットを使う。そして模範回答をアーカイブから検索するようになり、それを友人同士で教えあったりしている。そこでは自分で考えるという行為は少ない。
 もちろん答えをどのようにしたら見つけられるか、あるいは誰にお願いすれば模範回答を教えてくれるかは考える。
 勿論、見つけたもの、教えてもらったものをまとめなければならない場面ではどのように組み合わせしたらよいかということについては多少は考える。考えるとしても、そもそも何が問われているか根本の部分をじっくり考え、その設問に対する的確な答えを自分で考え、組み立て、推敲するという行為をするものは少ない。これでは宿題を出しても何の意味もない」と言う。

 確かにインターネットの普及でパソコンの操作方法を知っていれば大抵の情報は入手できる時代になった。しかし、大学で学ばなければならないことは入手できた情報をどのように組み合わせていけば、正しい答えにたどり着くことができるかということであり、そこで問われるのは論理的思考力、創造力、構想力である。
 ところがインターネットを上手に使えば本人が考えなくとも答えは出てくるのでじっくり考える必要はない。
 しかし、じっくり考えろといっても果たしてどう考えていったらよいかという思考力を持ち合わせているかといったらそれは怪しい。

 そもそも、わが国のこれまでの学校教育、小学校、中学校、高校、大学で思考力を強化するような教育は残念ながらほとんどなかったといってよいのではないかと思う。
 私自身のつたない経験でもそのようなことはなく、小学校から高校までは漢字の正しい読み、書き、西暦何年に○○事件が勃発したといった類いの知識を覚えさせ、それを正しく記憶しているかというテストの連続であったような気がする。
 大学ではどうかというと、自分はほとんど勉強らしい勉強をしなかったのでエラそうなことは言えないが、それらしい教育はなかったような気がする。

 日本における学校教育では知識の教育はあってもどのように考えたらよいかという思考プロセスを教える教育は不在といってよい。
NHKにクローズアップ現代という番組があるが、先般、放送された「ヨーロッパからの新しい風」という放送の中でキャスターの国谷さんがOECDのアンドレア・シュライハーという方と対談していたが、そこで国谷さんが日本では正解はどれかという問題が出題されるが、OECDのPISA(学習到達度調査)で出題される問題には正解は一つという問題はまったくなかったがこれはどういうことかと質問していた。
 シュライハーさんは次のように答えている。
 「子供たちが学校を卒業して社会に出るが、実際の人生において正解は一つということはなく、状況によって正解は複数あるものです。化学の原子記号とか、くもの足は何本かといったコンピュータのキーを押せば簡単に答えが出るようなことを学校は教えるのではなく、様々な分野の知識をつなぎ合わせて状況に合った答えを導き出す考える力こそ子供たちに身に付けさせなければならないと考えています。
 私達が生きていく上で必要と考えている『学力』は問題を科学的に考える能力です。幅広い事柄に適応できる能力です。状況を分析し、論理的に説明し、情報を批判的に捉え、その上で状況に応じて問題を解決していく能力こそ身に付けさせなければならないのです」
シュライハーさんの言われるように考え方の基本が身についていれば、異なった問題に遭遇しても慌てずにどうしたらよいかという答えを見出だすことができるはずである。

 学校で学んでいる知識がまったく不要ということではないが、実社会では不明な知識があれば他人に聞くなり、辞書を引けば容易に得られる。
 特に最近はインターネットの普及で情報は手軽に得られるので、これからの日本の教育でも、情報をどう組み合わせたら正しい結論を導き出せるかかという思考プロセスの習得こそ必要ではないかと思う。


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第2回 『一歩距離をおいて状況を見る』 (2008/4/21)
 
 物理学者であるアインシュタインは「一つの問題を明確に説明するというたったそれだけのことが、解決よりはるかに重要である場合がよくある。解決とは、数学上、あるいは実験上の技術ということにすぎない」と言っている。

 何が問題なのかを慎重に見極めてから行動を起こせばやらなくてもすんだのに、見極めをしなかったがためにムダな汗をかいてしまうことがよくある。
 ところが多くの人にとって、問題が何かを見極めるより解決策を見出だす方が容易であり、それに奔走していると仕事をやっているという感じになってしまうものである。
 早出、残業、休日出勤という具合にモーレツに働くのを賞賛する気風はまだまだ日本企業においては根強いが、重要なのは何をするかであり、どの程度するかではない。

 問題解決に即していえば、問題を正しく解決するのが重要であって、問題を解決するのにかかった時間や労力の量ではない。汗をかかなくてすむならそれの方がいい。

 問題の見極めにもう少し時間をかけていたらムダな汗をかかなくてすんだという事例を紹介する。恥ずかしい話だがこれは私自身が実際に体験した話である。
 私が、ある施設を借りて、研修会をやった時のことである。会場となった4Fの会議室にホワイトボードがなかったので、1Fにある会議室から運ばなければならないことになった。一人で運ぶのは無理なので、スタッフのA君と二人で力を合わせて持っていこうということで行動にすぐ着手した。この時、私は自分達の取り組むべき問題は何かということを立ち止まって考えるということはまったくしなかった。とにかく横2uあるホワイトボードの左右に分かれ、ボードを持ち上げ、階段を一段づつ登っていった。階段の天井が低く、大きいボードを一気に運ぶのは困難で1Fから2Fの踊り場で小休止。8月で暑かったこともあり、かいた汗を拭い、さあもうひと踏ん張り頑張ろうということで2Fから3Fへと階段を上り始めた。
 その時、私はホワイトボードの重さに耐えかねてボードの掴んでいた部分を手離してしまい、ボードは落下してしまった。その結果、落下した衝撃でホワイトボードのボード部分が足の部分から外れてバラバラになってしまった。これは大変なことになったと一瞬思ったが、もともと取り外しができる構造になっているので心配することはないと一安心した。

 そしてこの時、私もA君も同時に自分達が愚かなことをしていることに気付いた。このホワイトボードをボード部分と足の部分がくっついた状態のまま運ぼうとしているから、低い天井、足場の悪い階段で苦労しているのだ。ばらして、ボードはボード、足の部分は足の部分と分けて持っていけば、こんなに汗もかかずに楽に持っていけたのではないかということがわかったのである。
時間は十分ある。相手は取り外しが可能なホワイトボードである。天井は低く、1Fから4Fまで運ぶのは大変手間がかかる。この状況を見極め、自分達の取り組むべき問題は、「取り外しができるホワイトボードを楽に1Fから4Fに移動することである」と定義すれば、こんなに汗をかかなくてすんだ。

 古いことわざに「うまくはじめれば、半ば成功」というがまさしくそうである。
 もし、この時、一歩離れたところで、私達の行動を見ている人がいたら「分けて運べば楽に運べるのに、この人達はなんと思慮のない人だろう」と苦笑いを浮かべてあきれていたことだろう。

 一般的に状況は、その中にいる当事者に必ずしも一番見えているとは限らない。状況はその中にいる人より、外の人の方がよく見えることの方が多い。
 外の人の方がなぜよく見えるかというと渦中にいないので客観的に見ることができるからである。それは物理的にも精神的にも距離をおいているからである。

 前述した私の例のように、当事者ともなるとつい渦中に入り過ぎて見えなくなってしまうものが、一歩離れて見ると今まで見えなかったものが見えてくることが多い。
 一歩立ち止まって、一呼吸して、周囲をじっくり見て、今、なすべきことは何かを見極めてから、必要な行動に移るべきである。


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第3回 『第二があると第一が徹底する』 (2008/5/7)
 
 宅急便の生みの親であるヤマト運輸の元社長、故小倉昌男さんがお書きになった『小倉昌男 経営学』(日経BP社)という本の中で次のようなエピソードが紹介されている。

 小倉さんがヤマト運輸の子会社である静岡運輸という会社に勤務していた際にあった話であるが、その会社では交通事故や労災事故が多かった。そこで労働基準監督署からの指導もあり、管内の事故の発生が非常に少ない事業所を見学に行ったところ、その事業所には「安全第一、能率第二」という紙が壁一杯に貼ってあったという。そこの経営者の「安全も能率もどちらもしっかりやれと言っていた時分は、結局どちらも中途半端でした」という言葉から、小倉さんは自社の事故が減らない理由にはたと気付いたという。それはこれまで小倉さんの会社では「安全第一」とだけ書いたポスターを貼っていたからであった。

 自社にもどった小倉さんは早速「「安全第一、営業第二」と書いたポスターを貼った。
その結果、事故は急激に減ったという。運転者の皆さんは「安全第一」といっても営業(配送効率)は絶対落してはいけない、できるだけ早くお届けするのが自分達の使命であるという呪縛ともいうべき思いがあり、その結果、安全よりも配送効率=スピードを優先していたが、トップから配送効率は二番手でいい、それより安全輸送が優先するのだという方針が明確に示されたので安心して安全輸送に取り組むことができたからである。

 興味深いことに、「安全第一、営業第二」としたにもかかわらず不思議なことに営業(配送効率)は落ちなかったという。
 「安全第一」という呼び掛けには、安全が何よりも優先することをいっており、改めて「第二」を明らかにする必要はないと思われる方も多いかと思うが、「第二」がないと 「第一」は焦点ボケしてしまい、その逆に「第二」が明確に示されると「第一」が徹底するということをこの小倉さんの例は物語っている。
 「安全第一」というスローガンは輸送業だけでなく、多くの建設現場や製造現場にも掲げられているが、もし事故率が減らないところがあれば、ひょっとしたらこの「第二」が示されていないからではないかと思う。

 事業所によっては「安全第一」ではなく「品質第一」というスローガンを掲げているところもよく目にするが、「第二」を掲げているところを目にしたことはない。
 以前、乳業メーカーY社が食中毒事故を起こして大騒ぎになった時、発生元と見られた大阪工場がテレビの画面にしばしば写し出された。そこには皮肉なことに「品質第一」という看板が掲げられていたが、「第二」はどこにもなかった。もし「品質第一、作業効率第二」という看板が掲げられていたら、作業者は安心して優良な品質のものの生産に専念できたのではないだろうか。

 あれもこれも大事なことがらということで並列せざるを得ない場合もあるかと思うが、並列の場合でも何を優先するかと決めた上で、その優先順位ごとに並べるべきであり、さらにその順位の主旨を関係者に周知徹底すべきである。
 「二兎を追うものは一兎をも得ず」という教訓があるが、あれもこれも大事ということになると肝心なものを確保することができない。やはり物事には優先順位をつけるべきである。

 ただ、この優先順位をつけるのは上位者の務めである。前述した小倉昌男さんも「トップだからこそ『安全第一』、そして『営業第二』と言うことができた」と述べている。こんなことを現場の責任者が宣言して、それを貼り出していたら、見回りにきたトップから「お前は何を考えているのだ!」とお叱りをうけるに違いない。だからトップ自らが何を優先するべきかを明らかにしなければいけない。


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第4回 『花粉症発生はスギだけが原因か?』 (2008/5/19)
 
 私が日頃行っている研修で、原因究明の手順の説明の際、好ましくないことが発生した場合は、発生しているものと発生してもおかしくないのに発生していないものとを比較して、そこに何か違いがないかと探ることが原因究明の早道であると話している。

 そして、今まで何でもなかったものに急に異常が生じたら、注意深く変化を探っていけば、そこに真の原因につながるものが潜んでいると話している。

 このことを現実の事例、昨年以上に猛威を奮った花粉症に適用してみる。
 2000万人の人を悩ませているスギ花粉症の原因はスギによる花粉アレルギーというのが一般に信じられているがそれが真の原因だろうか?

 私はこの分野の専門知識がないので断定的なことは言えないが、「原因究明の手順」を適用して考えると、もし花粉症の原因がスギ花粉であるなら、スギは昔からあるのだから大昔からスギ花粉症患者は存在していなければならない。栃木県日光にある杉並木は有名だが、もしスギ花粉が原因だったらら花粉症で悩まされている患者が昔からあの地方には沢山いなければならないと思うが寡聞にして聞いたことはない。

 そもそもスギ花粉症が最初に見つかったのは1964年、東京オリンピックの頃といわ れている。そして花粉症が異常に増えてきたのは1975年頃。当初は戦後激増したスギ植林による花粉エネルギー説が有力であったが、関係者の間ではそれではなく車の排気ガスによって起きる大気汚染が関係しているのではないかと言われている。
 車でもガソリン車でなくディーゼル車の出す排気ガスが花粉症をより多く発生させるということである。ディーゼル車が普及しはじめたのが1960年代に入ってからであり、スギ花粉症発生の時期とも一致する。ディーゼル車の普及とスギ花粉症の増加をグラフにすると、両者の伸びが奇妙なほど一致しているということである。ではディーゼル車の排気ガスだけが原因かというとそうでもなさそうである。

 私の知り合いでスギ花粉症で長年悩んでいた人が仕事の関係で沖縄に赴任していた3年間はまったく花粉症で悩まされなかったと言う。「沖縄ではディーゼル車は走っているが、スギはなかった。自分の体験から言えばディーゼル車が原因とはいえない。
 なぜならば自分はスギ花粉の舞う東京に戻ってきた途端、また元通りになったので花粉症の原因としては、やはりスギ花粉が原因はないか」と実感を込めて言われる。しかし、異常に発生した時期から推定するとディーゼル車の出す排気ガスも大いに関係がありそうである。

 そうなると花粉症の原因は昭和25年の第一回植樹祭をきっかけにわずか5,6年の間に沖縄を除く全国各地に集中的に植えられたスギ花粉の飛散と前述したその後登場したディーゼル車の出す排気ガスとの複合原因ということになるかもしれない。ただ、ディーゼル車は一年中走っており、花粉症が発症する時期とスギ花粉が飛ぶ時期とが一致するので主原因はやはりスギかもしれない。

 私は幸いにも花粉症に悩まされていないが妻は相当重症である。同じ所に住み、同じようなものを食べているにもかかわらず花粉症になる人とそうでない人が存在するということは当人の体質も原因の一つにはなるとは思う。花粉症で悩んでいる多くの人同様、妻もずっと以前から花粉症であった訳ではなく、ある年、突然なってしまったので、さらに複雑な要素があるかと思うが、素人にはその辺の因果関係は分からない。

 ただ、今日の花粉症が1975年頃からは顕著になってきたことからするとそれにさかのぼる十数年の間の変化が原因しているということだけは確かであると私は思う。
 この花粉症に関しては原因が判明しても完全に発生を無くすことは難しそうなので、残念ながら対症療法で悪影響を最小に押さえるしかないかもしれない。


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第5回 『「他はどうか?」の発想をする』 (2008/6/2)

 思いがけないトラブルが発生すれば、私達は起きている事実の情報は確実に取る。そして、その起きている事実の情報だけで原因を特定しようとする傾向がある。
 そうすると、あれこれと原因が考えられる。可能性がある原因すべてに裏付けを取るのはムダが多い。
 そのようなムダを避けるためにも、厄介なトラブルが発生して、原因の特定が困難な時は、起きている事実だけでなく、「他はどうか?」ということで起きてもおかしくないのにどういうわけか起きていない事実に着目するのがよい。

 例えば今まで見事に咲いていたシクラメンが最近になって枯れてきたとする。枯れたシクラメンだけを見て、なぜこうなったかを考えると、水をやり過ぎたのか、土壌がよくなかったのか、陽当たりがよくなかったのか、栄養剤が足りなかったのかという具合にあれこれ原因が考えられてしまう。

 この時、同じ時期に、同じ業者から購入したシクラメンで見事に咲いているものがあれば、なぜこれは枯れないのだろうかということで、両者の間に何か違いがあるのではないかと比較する。水も土壌も、栄養剤も同じであり、違うことといったら置いてあった場所だけだということであれば場所に原因があるのではないかと原因が絞られてくる。
 このように起きてもおかしくないが、どういうわけか起きていないものがあると、考えられた原因が真の原因であるかどうかの検証をする時に非常に役に立つ。
 好ましくない事柄が発生して、その原因が今一つ分からないような場合、「恐らくこれが原因だ」と早い段階で原因を特定するのが得意な人は、必ずトラブルの特徴に着目している。
 それは、どういうことかというと、あるものに好ましくないことが発生して、類似の他のものに発生してなければそこに必ず何らかの違いがあるはずであるからである。

 例えば、同一製品で、あるロットに不具合が発生して、他のロットに発生していなければ発生している方に必ず何か違いがある。
 あるいは、同じ商品を販売していて、ある地域では売れていないのに、似たような環境下にある他の地域では売れているとすれば、売れていない地域と売れている地域とでは何か違いがあるはずである。
 ある時間帯に発生して、それ以外の時間帯に発生していなければ、発生している時間帯には何か違い、特徴がある。
 その違い、特徴が今回のトラブルに何らかの関係をしているものと考えられる。

 この辺のところを具体的事例を挙げて説明すると、これは半導体を生産している工場で発生した話であるが、工場関係者は生産しているICの不良率が高いので悩んでいた。
 関係者が集まり、なぜこのような高い率で不良が発生するのかを分析したがどうもわからない。不良は一日に数回、時折発生する。時折発生するというが特定の時間帯に集中して発生しているような感じもする。しかし作業現場を見ているだけではなぜ特定の時間帯に集中して発生するのかが分からなかった。

 ある日、たまたま、スタッフの一人が工場の外に出た。工場の近くに踏切りがあり、貨物列車が進行していた。貨物列車の長い車列が通り過ぎるのを見ながら不良のことを考えていた。通過する列車の轟音を聞いている時、足元が揺れた。その時ひらめいたという。
 この列車の通る時の振動が不良品の発生に関係しているのではないか、この列車が通る時間と不良発生の時間が一致するかもしれないということで裏付けを取ると正しくそうであったという。

 偶然、原因が判明したが、この例の場合、特定の時間帯に発生して、それ以外の時間帯に発生していない事実に着目して、特定の時間帯の違い、特徴を注意深く探れば早い段階で原因は判明したのではないかと思われる。


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第6回 『お説教にも合理性を』 (2008/6/16)
 
 上位者が何らかの落ち度があった部下に注意を促す説教には二種類あるかと思う。
 一つは叱咤(怒って大声で叱りつける)であり、もう一つは説得(よく話して納得させる)である。つい感情的になって叱咤して部下の反発を招くこともあり、納得のいくような話をして部下の快い協力を得ることがある。その辺の悪い例と良い例を私の好きな野球の話で紹介する。

 以前、読んだ週刊誌に読売巨人軍のバッテリーコーチを務めていたS氏の手記があった。その手記の中で私の興味を惹いたのは次のような部分である。
 「自分はペナントレースの真っ最中に捕手であるMを殴った。それは東京ドームでの中日戦でピッチャー(高橋尚成)の投げた球をパスボールしたからである。このパスボールがきっかけで大量点を取られて巨人は負けてしまった。早速ベンチ裏にもMを呼んで『どういうつもりなんだ!』と問いただすと『ピッチャーのサインミスです』という。それで自分はMを殴ったのです。平手で思いっきりいきました。『サインミスなら、なぜピッチャーを叱らないのか。何度同じ間違いをすれば気がすむのか。俺に殴られた痛さをピッチャーにぶつけろ!』

 Mは10分くらい沈黙していました。ホントのことを言うと、キャッチャーのミスではなくピッチャーの投げ間違いだということは見てすぐわかっていたのです。キャッチャーの構え方を見ていれば、それはよくわかります。ただ、Mの場合にはそれでピッチャーを叱る気迫がない。アイツの課題はそこなのです。翌日も試合があったので遠征先の広島でアイツと夜飲んで説教しました。アイツも納得して聞いてくれていたと思います」
 この手記を読んだ私にはM捕手が心から納得したようには思えなく、このS氏がその後読売巨人軍を解雇された理由が分かるような気がする。

 この手記を読んで思い出したのは、ずっと以前、V9時代の読売巨人軍の守備担当コーチを務めた今は亡き牧野 茂氏の話である。いささか古い話で恐縮だが、巨人を退団して評論家をしていた時、講演の中で次のようなお話をされた。
 「藤田監督に乞われて巨人軍のヘッドコーチに就任した時、優勝できなかった前年の試合の模様をビデオで再確認した。負けた試合の中で目立ったのはキャッチャーを務めていた山倉選手のパスボールであった。パスボールで相手に決勝点を与えてしまった試合が数試合あった。
そこで山倉捕手を呼んで『なぜあのようなパスボールをしてしまうのか?』と聞いた。山倉捕手は『私の補球が未熟なせいです』と言う。その答えに疑問を感じた自分は再度ビデオでパスボールの場面を見た。そうすると山倉捕手の構えている位置と著しく違うところにピッチャーが投げており、どんな優秀なキャッチャーであっても補球は無理であると思われた。どう考えても山倉の補球が未熟なせいではなく、ピッチャーが山倉のサインを見誤っていると言わざるを得ない。再度、山倉捕手に確認すると『実はサインミスです。それも私が至らないせいです』と言う。そこで自分は当時のエース格であった堀内恒夫等ピッチャー全員を集めて次のような話をした。
 『君達は非常に幸せである。なぜならば君達の球を受けるキャッチャーが山倉という大変好人物の男であるからだ。君達が山倉のサインを見誤ってとんでもないところに投げても山倉は試合後の記者の質問に対して君達を責めるような言葉はひとつも吐かず自分が至らなかったせいだと言う。もしこれが森(V9時代の正捕手で西武ライオンズの監督を務めた人)だったらどうなったか。「ピッチャーの○○が私のサインを見誤ったせいです」というはずだ。君達は山倉に感謝しなければいけない。とにかくサインミスは極力なくそう。サインミスがなぜ発生したのか、どうしたらなくなるかをお互いに話し合い、今シーズンはそのようなことのないようにしよう』と。
 そしてサインミスが発生しないようサインの打ち合わせを綿密にやった結果、そのシーズンはほとんどサインミスによるパスボールはなくなったという。

 部下を預かる現場の指導者にはS氏のような叱咤激励だけではなく、牧野氏のように、事実を確認し、真の原因を解明した上で、それをどうしたら改善できるかという具合にステップを踏んで解決策を提示していけば部下も納得してついてくることは必至である。



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第7回 『差でなく違いで勝負する』 (2008/6/30)
 
 ホンダの二代目社長の河島喜好さんは「差でなく違いを生かせ!」とよく言われたという話を親しくしていたホンダの関係者から聞いたことがある。

 河島さんは「差というものはいかんともなしがたい。人間だって身長が低いからといって高くしようとしても限界がある。企業だって規模が小さいことを嘆いても仕方がない。身長が低いとか企業の規模の小ささは嘆いたところでその差を埋めるのはむずかしい。しかし差を埋めるのではなく違いを出すことは人間の努力でできるはずである」と言う。
 確かに4輪に進出したころのホンダがトヨタや日産と体力勝負したら負けたはずだ。トヨタや日産にないものを作ろうと懸命に努力したところに今日のホンダがある。まさしく差でなく違いで勝負したからホンダは成長してきたといえる。
 小が大に勝つには自分のところの強みを生かすしかない。強みなんてあれば苦労しないという人が多いが、しかし気を利かしてよくよく考えてみれば強みはあるはずである。

 競争の激化を嘆いても誰も助けてくれない。強みを見出だして、それを生かすことをやれば活路は開ける。
 競争の厳しさでは一番だと思われる家電製品の販売の業界でもそのことはいえる。  町の電器屋さんが、大手のヤマダ電器やコジマ、ビックカメラ、ヨドバシカメラに商品の価格や品揃えで正面から対抗しても、玉砕することは必至である。

 以前、日経産業新聞に「生き残る町の電器屋さん」というタイトルで厳しい販売競争下で健闘している家電販売店がどんな試みをしているかという話が紹介されていた。  その一つ『鎌倉家電』は京成小岩駅から歩いて15分、住宅街の中にポツリとあるお店である。立地条件には恵まれているとは言い難いが、顧客に関する過去の購入や修理の情報をこまめに集めることで買い替え需要をあらかじめ予測して、売上の拡大につなげているという。

 顧客情報をどのように集めているかといえば、客の家にエアコンを取り付けに行った時、テレビや冷蔵庫など家電製品のメーカー名や型番を調べる。この二つが分かれば購入した年が割り出せるという。それら情報をPOS端末に入力しておく。
 さらに夏場には「エアコンクリーニング」というサービスを展開する。これはエアコンを購入したお客に一回当たり一万円程度でエアコンの掃除を請け負う。
 秋には取り付け手数料なしで蛍光灯を交換するキャンペーンを展開する。
 このようにきめこまかくお客宅を訪問することによって顧客情報をできるだけ多く集める。そして、そろそろ買い替えを考え始めるのではという時期にタイミングよく製品の最新カタログや広告を配るという。

 鎌倉家電の客の3〜4割は60歳以上の高齢者だというが、顧客情報をこまめに収集して、こちらからきめ細かくアプローチすることによって順調に売上を伸ばしているという。
 鎌倉家電はいたずらに商圏を拡大することなく、限られたエリアで一度でも取引ができたお客様には、その後きめこまかくフォローするという気配りをして、お客様との密な関係を維持して、次の販売に繋げていることである。
 今後、高齢化はますます進むものと思われるが、そうなるときめ細かな顧客サービスを心掛けている町の電器屋さんの価値が見直されると思う。
 私はこの成功している電器屋さんの考え方を応用すると、他の業種でも十分効果があるのではないかと思う。
 例えば、信用金庫や信用組合が大手都銀とまったく同じようなことをしていて預金者集めに成功するとは限らない。大手都銀にも注意深く考察すれば必ずどこかに隙間があり、その隙間を突くような方法を講じれば勝てないまでも共存することはできると思う。

 小が大に勝つのにまったく同じことをやっても勝てない。時代が悪いと嘆くのではなく、頭を働かせて、どうしたら違いを出せるかを考えれば勝機は見つかるはずであると確信している。



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第8回 『基準が分からないと不愉快』 (2008/7/14)
 
 新聞等の募集広告を見て、応募したものの、後日、その応募先の人事部から「当社の採用基準には達しなかったので不採用という結果となりました。悪しからずご了承下さい」という「お知らせ」をもらって、悔し涙を流した人が結構おられるのではないかと思う。

 私自身も若い頃、いくつかの会社からそのような「お知らせ」をいただいたことがある。
 その都度、(いったい俺のどこが気に入らないんだ、何がよくないのかはっきり言ってくれ!)と思ったことが何度かある。そうかといって人事部に「私のどのような部分が御社の基準に達しなかったのですか?そもそも御社の採用基準はどのようなものかを具体的に教えて下さい」と問い合わせる勇気はなく、捨てる神あれば拾う神ありとあっさり割り切ってその「お知らせ」を勢いよく破り捨てたものである。

 ただ、よく考えてみれば、「当社の採用基準に達しない」という言い方はある意味では傲慢であり、真剣に仕事を求めている人に対して失礼な言い方ではないかと思う。  このような文言は今でも平気で使われているとは思うが、そろそろ考え直してもいいのではないか。
 これこれの理由であなたはダメでしたとか、当社の採用基準はこのようなものであり、あなたはこの項目でNGでしたと親切に伝えるべきではないかと思うがどうであろうか。
 もっともそんなことを実施していたら相当な手間がかかり、何千、何万人という多数の応募者があるところはパニック状態になってしまうかもしれないが、それでも、採用基準ぐらい提示しても罰は当たらないと思う。
 どのような項目で評価されたかが分かれば、自分がなぜ不合格になったかが少しは理解できるので、納得もしてもらえるのではないかと思う。
 欧米流のストレートな言い方では相手を傷つけるから、分かったようで分からないオブラートに包んだような言い方の方が好ましいという人もいるかもしれないが、なぜそのようになったのかが分からないと釈然としない、あるいは納得できないと不満を持つ人は多いと思う。

 人の採用の場合だけでなく、NGという判断がされた場合、なぜそのような結果になったのか、その判断の根拠が本人に明確に伝わっていれば、結果そのものに対する不満はあってもあきらめは早くつく。ところが、その判断の根拠が分からないとくすぶるものが残り、不愉快さが増すものである。
 自分が期待しているような結果になれば問題にならないことが、不採用とか、入会不可といったような期待外れの結果になった場合は、なぜそうなったのかがよく分からないとわだかまりが残るものである。
 最初に基準を明らかにすると、門戸を閉ざしているのはけしからんとか、差別をしているとか色々意見を言う人がいるかもしれないが、どのような理由でNGになったか分からないよりもましである。

 どのような基準を設定するかは法律あるいは公序良俗に著しく反しない限りそれぞれの企業の自由であるはずである。基準を設定する側にとって歓迎しないものであれば、最初からそれを絶対条件にして、それを満たさないものはNGにするということを明示すればお互いにすっきりする。

 米国ほどではないが、日本も早晩、訴訟が盛んになるであろうから、基準が示されないのは不当であるとか、示されなかったために不利益を被ったということで、裁判沙汰に発展するかもしれない。そのようなことになるのを防ぐためにも、今後は明らかにしてもさしつかえない基準は堂々と事前に明らかにするべきではないかと思う。



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第9回 『説明責任を果たす』 (2008/7/28)
 
 『アカウンタビリティ』という言葉を新聞や雑誌でいつの頃からか、しばしば目にするようになった。英和辞典で『アカウンタビリティ』を引くと「理由を説明する」とか「釈明をする、責任をとる」というような解釈が載っていた。そのようなことからこの『アカウンタビリティ』は『説明責任』、『説明能力』という意味で使われているかと思う。

 私が日頃行なっている「ロジカルシンキング」の研修の際、受講者の皆さんに論理的思考プロセスに沿って結論を出せば、いくつかある選択肢の中からなぜこれを選択したかという説明が容易にでき、説明責任を果たすことができると話している。
 ただ、どのような評価項目を設けたのか、評価項目の中でも何を重視したのか、さらになぜそれを重視したのかという理由を明らかにして、それを納得していただかないと快い了解を取るのは難しいので評価基準が非常に大切であるということを強調している。
 そういった点で、評価基準が納得できないと、場合によっては訴えられることもあるので要注意である。

 以前、あった話だが、衆議院赤坂議員宿舎の建て替えをめぐって、入札に参加した企業の一つであるMビルが発注者である衆院議長を訴えたことがある。
 これは民間主導で効率的に社会資本を整備するというPFIという法に基づいて入札が行なわれたが、評価基準がPFIの趣旨に添わないものであり、これは不当であるというのがMビル側の主張である。

 そもそもPFIとは何かというと、プライベート・ファイナンス・イニシアティブの略で、「民間資金を利用した社会資本整備」と訳されるものである。PFIの狙いは従来型の公共事業と違い、公共施設整備に民間資金やノウハウを導入して効率化を図るというものである。国や地方自治体が施設が必要とする機能を示し、建設や施設の維持管理を民間に任せるというのがPFIである。
 行政側にお金がなくなってきたので財政支出を抑制し、行政運営の効率化を図ろうということで近年このPFIの導入を検討する自治体が増えてきている。

 PFI法をめぐって行政訴訟に持ち込まれたのはこの赤坂議員宿舎の建て替えが始めてである。赤坂議員宿舎の建て替えの入札に参加したのはMビル、K社、O組の三社であった。K社、O組の建て替え案は28階建てであったが、Mビル案は40階建てで、K社、O組案より民間施設部分の規模が大きかった。事業期間の30年間で比較すると、国にテナントから入る地代や法人所得税などの収入はK社、O組案より150億円以上多くなることが見込まれ、建築価格などが50億円多く掛かるのを差し引いても国の財政支出は最終的に100億円以上少なくて済む計算であった。
 しかし、落札したのは建築価格を含む入札価格が一番安かったK社(318億円)で、O組(363億円)、Mビル(373億円)は選ばれなかった。
 Mビル側は「PFIの基本方針では、事業に伴って見込まれる収入額を考えて評価するのが原則とされているのに、今回はそれが評価項目に入っておらず、PFI法の理念に反する。これでは、工事代が安ければいいという従来の公共工事の入札と変わらない」と主張する。
 まさしく、Mビル側の主張通りであり、国の財政支出をできるだけ抑える、それもトータルで抑えるという項目が評価項目に入り、それに一番高いウェイト点が付いたらMビルが選ばれたことだろう。
 この訴訟の結果はまだ出ていないが、自分達が納得できない、承服しがたい結果が出ると訴えるというケースはこれからもどんどん増えてくるのではないかと思う。

 決定というものは過去のことではなく、これから先のことを決めるので絶対間違いのない決定は神ならぬ身、難しいが、それでも、今現在得られている情報を元に、最善の決定をすることが必要である。その際、どのように考えたかが問題であり、どのような情報をとり、その情報をどのように評価したか、そして前途をどのようにとらえたのか、どのような評価基準を設けたのか、その上でどのような選択肢を考えたのか、どのような評価をしたのかというプロセスがはっきりしていれば説明責任を果たすことができる。



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第10回 『蛮勇にならないために』 (2008/8/11)
 
 経営者、上級管理者に求められることは日常の業務監督より、組織として何らかの結論を出さなければならない場面で最善の意思決定をすることである。そこでは、正しい判断をスピーディに出すことが求められるがこれがなかなかむずかしい。

 それは何故か?
 私達が重大なことがらの意思決定をためらうには三つの理由があるといわれている。  その一つ目は情報不足である。情報が不足していればやはり意思決定は躊躇せざるを得ない。

 では情報不足の時、どうしたらよいかというと、まず不足している情報は何か、どのような情報があれば意思決定できるかを具体的に列挙する。そして、次に、それらの情報は入手可能か、入手不可能かを考えてみる。入手不可能な情報もあるがそれでも意思決定しなければならない場合もある。確かに情報は一部不足しているが、それを理由に意思決定をやめるのではなく、その情報が欠落していることを知った上で意思決定にのぞむという態度が必要である。
 また、情報は生きているものである。今、手にした情報がずっと正しいものであるという保証はない。できる限り情報を集める努力は必要であるが、すべての情報は収集できない。すべての情報が集まらなければ決断できないといっていたら未来永劫できない。全ては変化しているのだから。

 GEの会長兼CEOを務めたジャック・ウェルチは著書『ジャック・ウェルチ わが経営』の中で、「ビジネスの問題で白黒のはっきりした答えはめったにない。ビジネスでは数字と同じくらい、場合によっては数字以上に匂いや感覚や感触が大切なときも多い。完璧な答えが出るまで待っていたら、世の中から置いてきぼりを喰わされるはめになる」と述べているが、このことは今、得られる限りの情報で最善、最良の意思決定しなければならないことを物語っている。

   二つ目としては意思決定の技術がないからである。情報がいくら集まってもそれをどう扱ってよいかの技術がなければ宝の持ち腐れになってしまう。技術は学ぶことができる。
 どうすればよいかといえば、私が日頃、行っている「ロジカルシンキング研修」で紹介している意思決定手法を学習し、その意思決定の基本的技術を学んだら実践して磨きをかければ自信を持って意思決定できる。

 三つ目は勇気不足である。重大な意思決定には勇気が必要である。リスクテーキングする気概が必要である。
 しかしその勇気、気概が持てないのはリスクの把握が不十分であるからである。どんなリスクがあるか、そのリスクの発生確率と発生した場合の影響度の予測が事前に十分されており、そのリスクをどのように回避するか、仮に発生しても、その影響を必要最小限に抑えるにはどうしたらよいかという分析が十分であれば、重大な意思決定もためらうことなく行うことができる。

 これも「ロジカルシンキング研修」で紹介しているリスク分析手法を学んで、それをきちんと適用すれば、誰でも勇気が持てるようになる。
 リスクを周到に分析した上でリスクテーキングする勇気と、無手勝流で後先を考えずに進む勇気では大違いである。
 三井海上火災保険の社長であった故 石川 武さんは、しばしば「知性なき勇気は蛮勇である」といわれていたというがまさしくそれである。



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今井繁之先生のご紹介

【ご経歴】
1965年、明治大学商学部卒業。
(株)リコー、ソニー(株)に勤務。
ソニー(株)に勤務の間、論理的問題解決法であるKT 法(ケプナー・トリゴー法)の社内講師を務める。
1986 年ソニー(株)を退社後、(株)デシジョンシステムで同種の問題解決法であるEM 法の研修講師を務める。
1990年に独立して(株)シンキングマネジメント研究所を設立。
現在、研修講師として多方面で活躍。

これまでに伊勢丹、INAX、NTT ドコモ、オリエンタルランド、大阪ガス、グローリー工業、アサヒビール、リクルート、三重県庁、宮城県庁等の企業・団体等の管理・監督者対象に「問題解決・意思決定力強化の研修」(TM 法研修)及び「ホウ・レン・ソウ研修」を実施している。

現在、シンキングマネジメント研究所 代表取締役所長。

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