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講師コラム:鴨林 由明 先生

『 ストレス解消のコミュニケーション 』

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第1回 ストレスの最大の原因 (2007/10/17)
 
  あなたはどんなときにストレスを感じますか?

 「明日までにこの仕事を終えなければならない。もし終わらなかったら大変なことになる。」「今度の仕事はやったことがない。できるかどうか不安だ。できなかったらどうなるんだろう?」「また大変な仕事が回ってきた。やってもやっても終わらない。時間がいくらあっても足りない。」などその状況は様々かもしれません。

 ただ、これらの状況には一つの共通点があります。それは、すべて『責任』の問題とかかわっていることです。

 あなたは『責任』と聞くと、どんなイメージを持つでしょうか? 

 重たい・重圧・プレッシャー・義務・任務・遂行・やるべきこと・役割・ストレス・尻拭い・やめる・切腹…などのイメージではないでしょうか。『責任』は文字からして重たい印象があります。「責」と「任」です。「任されたことを責められる」としたら、責任なんて引き受けたくなくなるのも無理はありません。

 なぜなら私たちは、責められるのが好きではありません。自分のことを否定されるなんて、真っ平ごめん! そういう存在だからです。

 『責任』を無理やり取らされた時、私たちは大きなストレスを感じます。やりたいとも思わない仕事なのに、失敗すれば責めを食らうからです。成功しても喜びどころかほっと安心するのが関の山。こんな状況では、ストレスがメンタル不全を起こすのも時間の問題かもしれません。

 ところが、たとえば自分が趣味でやるような作業を考えてみましょう。庭いじりとかスポーツとか何でも構いません。そこで自分が何かに失敗したとき、あなたはストレスを感じて滅入ってしまうでしょうか? たとえばベランダで育てている花や野菜に虫がついてしまったとき、落ち込んで動けなくなるでしょうか? スキーでコブを回れず転んだとき、ふさぎこんでしまうでしょうか? たとえ虫がついたことで誰かに不平不満を言われたとしても、虫を除けるべく即行動するでしょうし、転んでぶつかった相手に文句を言われたとしても、コブの回り方をさらに練習するでしょう。しかもある種、喜びを感じながら…。

 こんなふうに私たちは『自分から進んでやる』と決めた事柄に対しては、ストレスに強いし耐えられるものです。

これは仕事でも全く同じこと。火事で燃えさかる炎の中に2人の人間がいるとしましょう。消防隊員と逃げ遅れた人。このとき救出に責任があるのは、もちろん消防隊員。ではどちらがパニックに陥りにくくストレスにも強いでしょうか? これも消防隊員でしょう。つまり、『責任のある人の方がストレスに強い』という状況が生まれます。『やる甲斐がある』と感じて『自分から意識的に引き受ける』仕事に対して私たちはストレスに強いものです。このとき当人はやらされ感をみじんも感じていません。 だから実は、『責任がストレスになる』のではなく、『取らされた責任がストレスになる』のです。(さらにその仕事に対処できるだけの知識や経験があり、実際に何らかの手が打てるとすれば、ストレス耐性がさらに強まることは言うまでもありません。) たとえそれが上から指示された仕事であっても、その仕事が自分の人生にとってあるいは自分のキャリアにとって、やる甲斐があるかどうかを問い直し選び直して、自分から引き受ける意識を持つことは、いつでも可能です。 以上のように、『責任を取らされる』ことは私たちを弱くしますが、『自分から取りに行く』意識は私たちをパワフルにしてくれるのです。


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第2回<なじんだ思考法にご注意を!> (2007/10/30)
 
 前回は、『責任を取らされる』ことは私たちを弱くするけれども、 『意識的に自分から取りに行く』仕事は逆に私たちをパワフルにしてくれる、というお話をしました。

 これを聞いて『それもそうだ。意識を変えよう!』と新しい意識で生きようとしても、残念なことに 実はあまりうまく行きません。そう簡単に私たちの行動は変わらないものです。

 なぜなら、『責任』という言葉は、他にもいくつかの考え方と密接につながっていて、私たちになじん だ思考法が私たちの行動を妨げてしまうからです。

 私たちの行動の妨げとなる代表格には『原因を探る』思考があります。私たちは何か問題が起こると、 必ずその原因を探ろうとします。『問題が起こっても原因など探らない』という方はあまりいないはず。 私たちはどうして原因を探るのでしょうか?(と筆者自身も原因を探っている!)

 それはそんなふうに教えられてきたからです。原因を探るのが近代科学の思考法だからです。この思考法 があったからこそ、科学はここまで進歩したとも言えます。『物事の原因を探り、その原因を取り除いた り入れ替えたりすることで現状を変えることができる』と学校でも教わってきました。だから原因を探る ことは、それ自体ではとても大事なことかもしれません。

 ただこれが、もう一つ別の考え方と結びつくと厄介なことになります。それは、『いい』『悪い』の判 断をする私たちの習慣です。

 私たちは何か問題が起こると、すぐさまその原因を探ろうとします。そしてその原因を突き止めると、 その原因を『いいか』『悪いか』で判断しがちです。問題の原因だから、ふつうは『悪い』と判断してしま うでしょう。

 すると次のように思考が展開します。『問題Aが起こった⇒その原因を探れ⇒原因はBさんにある⇒いいか 悪いか?⇒もちろん悪い』つまり『問題Aが起こったのは、Bさんが悪いからだ』

 こんな思考法が展開するとしたら、何か問題が起こるたびに、誰かをあるいは何かを『悪い』と言って責め ることになります。こうなると、たとえどんなに意識を変えて「自分から仕事を取りにいこう」としても、無駄なこと 。 私たちは『悪い』と言って責められたくはないので、やはり責任を持とうとはしなくなるか らです。

 しかも『この原因が悪い』という思考法は問題改善に役に立つならまだしも、よく考えてみるとあまり役立 たないことに気づきます。『問題Aが起こったのはBさんが悪いからだ』と言ったとき、何が起こるでしょう?  言われたBさんは、反省して落ち込むか、反発して敵対するか、どちらにしてもあまり『いい』結果にはなら ないでしょう。

 ところが、「原因であるBさんを責めることで問題Aは解決に向かう」と、私たちの多くが無意識のうちに思 い込んでいる節があります。しかし、ほんのちょっと振返ってみるだけで、他を責めることによってよい結果 が生まれることはほとんどなかったことを思い出すでしょう。


 それではどうすればよいのでしょうか? ここで2つの提案があります。まずは自分が原因を探ろうとして いるとき、『この原因を探ることで本当に目の前の問題が解決に向かうのか?』と自分に問いかけてみること。

 Yesならそのまま原因を探ればいいし、Noならそんな無駄なことはやめた方がいいでしょう。

 2つめの提案は、『いい悪い』の判断をやめてみること。言うのはたやすいですが、これが意外と難しいもの です。

 あなたは何かにつけ『いい悪い』という表現を使わないでしょうか? いい人・悪い人、いい事・悪い事、い い物・悪い物、仲がいい・悪い、顔がいい・悪い、顔色がいい・悪い、成績がいい・悪い、心がけがいい・悪い、 感じがいい・悪い、などなど。他にも無数にあります。

 私たちは四六時中『いい悪い』の世界に住んでいます。これを『やめる』のは至難の業かもしれません。そこ で、まずは『いい悪い』の判断をしている自分を観察することを提案します。

 精神分析学者のアサジョーリも述べていることですが、私たちは自分を観察できているときには自分のことを コントロールすることができます。「あぁ今、自分は『いい悪い』の判断をしているな」と観察して気づいてい るだけで、私たちは自分を扱えるようになっていくのです。

 ただ、慣れないうちは、1つ目の提案だけでも実行してみるよいかもしれません。それだけであなたの世界はか なり変わって見えてくることでしょう。

 つまり、重たいストレス感は『周囲の状況によってやむなくあなたにもたらされるもの』ではなく、 感じるか感じないかをあなた自身が選ぶことのできるもの、と言えるかもしれません。



 
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第3回<自分を否定すると成長する?> (2007/11/13)
 
 初回は、『責任を取らされる』ことは私たちを弱くするけれども、『自分から責任を意識的に取りに行く』と逆に私たちはパワフルになる、という話をしました。

そして前回は、そんなふうに意識を変えるためには2つ方法があって、一つは『この原因を探ることで本当に目の前の問題が解決に向かうのか?』と自分に問いかけてみること。もう一つは、『いい悪い』の判断をしている自分を観察すること、というものでした。

 この2つ目の方法『自分を観察する』というのは、ちょっと分かりづらいかもしれません。どうして『自分を観察する』ことが意識を変えることにつながるのでしょうか?

 前回、『いい悪い』の判断をすると逆に『いい』結果は得られない、という話がありました。こんな話を聞くと私たちは『それでは「いい悪い」の判断をしないように努めよう』という意識になります。
そうすると、そんな判断をしてしまった場合に自分を責めたり否定したりしたくなります。

 これが曲者です。皆さんは、人に責められたり否定されたときに、自分の中でどんな反応が生まれてきますか? あまり気分のいいものではないでしょう。それどころか、逆に反発したくなりませんか? 自分を改めたいという気持ちにはならないことの方が多いのではないでしょうか?

 そして、このことは人に責められたときに起こるだけではありません。自分が自分を責めたり否定したときにも同じことが起こるのです。

 ですから上記のように、『それでは「いい悪い」の判断をしないように努めよう』と思うと、自分の中で反発が起こって、かえって「いい悪い」の判断が残ってしまいます。意図とは逆のことが起きてしまうわけです。

 つまり、成長しようと思って現在の自分を否定しても、結果はまるで逆になってしまうということが起こります。

 だから『自分を観察する』のです。自分を観察するためには、いったん自分の外に出ることになります。外に出ると言っても何も難しいことではありません。自分の意識を自分の外において、外から自分を見るということが誰でも簡単にできます。

 このとき私たちは、『いい悪い』の判断をしている自分と、それを外から意識している自分との2人に分かれます。『いい悪い』のワクの中で行動している自分と、ワクの外で観察している自分です。つまり、自分の行動はワクの中に留まりますが、意識はワクの外に抜けています。これがポイントです。

 ワクの中にある行動を否定することなく、ただ観察することで意識をワクの外に飛ばすのです。

 この観察を続けるうちに、ある瞬間シフトが起こります。ワクの内側にあった行動が、いつの間にか意識とともにワクの外側に抜け出るということが起こるのです。

 だから自分を観察すると自分をコントロールすることができるようになります。
前回ご紹介した精神分析学者アサジョーリは、きっとそんなふうに言いたかったのだと思います。



 
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第4回 <問題解決を軽やかにするために> (2007/11/27)
 
 まず、これまでの話を簡単にまとめておきましょう。
 ストレスを引き起こす最大の原因の一つに『責任を取らされる』という受動的な意識があります。この意識を逆にして、能動的に『自分から責任を取りに行く』と捉え直すことで私たちはパワフルに動けるようです。

 そして、こんなふうに意識を変えるためには2つの方法があって、一つ目は原因を探る思考をやめること。二つ目は、『いい悪い』の判断をしている自分を観察すること、というものでした。

 前回は、この2つ目の方法『自分を観察する』ことがどうして有効なのかというお話をしましたが、今回は一つ目の方法『原因を探る思考』について考えてみたいと思います。

 『原因を探る思考』がなぜまずいのでしょうか?
 私たちは何か問題が起こると、必ずその原因を探ろうとします。原因を探るのが近代科学の思考法だからです。この思考法があったからこそ、科学はここまで進歩したと言えるでしょう。『物事の原因を探り、その原因を取り除いたり入れ替えたりすることで現状を変えることができる』と学校でも教わってきました。だから原因を探ることは、それ自体ではとても大事なことです。

 科学の問題や技術上の問題については『原因を探る思考法』が素晴らしい成果を出したのですが、こと人間の問題となると少し事情が変わってきます。

 たとえば、ここに登校拒否の子供がいるとしましょう。母親が問題解決のためにその子供をある教育問題の専門家のところに連れて行きます。専門家はいろいろと話を聞いた後でこう答えます。『お母さん、この子の問題は日本の教育のゆがみが引き起こしているんですよ。』

 この専門家によって登校拒否の原因が見事に分析されたとしましょう。で、どうしますか? 『日本の教育のゆがみが正されるまで、この子の問題は放置するのでしょうか?

 そこで困った母親は次に心理の専門家の門をたたきます。心理の専門家は様々な話を聞いた後でこう答えます。『お母さん、これはこの子が小さいときの母子関係が問題ですね。』

 また見事に原因が分析されたとします。で、今度はどうするのでしょう? 『小さいときの母子関係』はもう訂正しようがありません。だってもうここまで育てちゃったんです。

 こんなふうに、こと人間の問題については原因を探ってもほとんど対処のしようもないことが多くあるものです。

 ですから、問題が起こったと感じたときには、すぐに原因追求したくなる気持ちをちょっとおさえて、次のように自問しましょう。『この原因を探ることで本当に目の前の問題が解決に向かうのか?』と…。

 Yesであればそのまま原因を探ればよいでしょうが、科学技術上の問題以外でこの答えがYesであることは、あまりないでしょう。

 では、原因を探っても目の前の問題が解決に向かいそうもないとしたら、私たちはどうすればよいのでしょうか?

 そんなときには、原因を探る代わりに、解決のイメージを探ります。つまり、次のように自問してみましょう。『この問題がどうなればよいのか?』と…。

 たとえば、『目の前の登校拒否の子供がどうなればよいのか?』と問いかけます。当然、その答えは多くの場合、『学校に行けるようになればいい』ということになるでしょう。

 ここでもう一歩踏み込んで問いかけてみたいのです。『それでは、この子が学校に行けるようになることで、何が実現できればよいのか?』と。ここまでくると、その答えは人によって全く異なってくるかもしれません。ある人は『人並みに勉強ができること』と答えるでしょう。またある人は『友達との人間関係を学ぶこと』と答えるでしょう。様々な答えがあっていいはずです。

 ここまで解決イメージを具体的にすると、対応策も見えてきます。『人並みに勉強ができること』を願っているならば、勉強を教えてくれる所があればよいかもしれません。『友達との人間関係を学ぶこと』を願っている場合、そんな場を学校以外で見つけてもよいでしょう。その対応策はそれこそ無限にあるのではないでしょうか。

 こんなふうに、『問題だ』と感じる状況に出くわしたとき、もしこの問題に対処したいのならば、原因を探るのではなく、解決のイメージを探るのが、近道となることは結構あるかもしれません。



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第5回 <他を責めることの罠> (2007/12/11)
 
 いつものように、これまでの話を簡単にまとめておきましょう。

 ストレスを引き起こす最大の原因の一つに『責任を取らされる』という受動的な意識があります。この意識を逆にして、能動的に『自分から責任を取りに行く』と捉え直すことで私たちはパワフルに動けるようです。

 ところが、こんなふうに意識を変えようとしても、そこには2つの制約があって、なかなかうまくいきません。制約の一つ目は原因を探る思考、二つ目は『いい悪い』の判断。

 原因を探っても残念ながら多くの場合には解決に向かわないし、『いい悪い』の判断をすると、私たちは『悪い』と判断した対象を責めてしまいがちです。解決に向かうこともなく、何かを責め続けているとしたら、ストレス過剰になるのは目に見えています。

 ですから、@『原因』を探るよりは『解決のイメージ』を探りましょう A『いい悪い』の判断を続ける自分のあり方を見直すために、そんな自分を観察し続けましょう、というお話を前回までにさせていただきました。

 今、『解決に向かうこともなく、何かを責め続けているとしたら、ストレス過剰になる。』と申しましたが、より正確には、『何かを責め続けているとしたら、解決に向かうこともない。結果としてそれがストレス過剰を生む。』と言った方がよいのかもしれません。その訳をちょっと考えてみましょう。

 企業で研修をさせていただく際に、受講者の皆さんからよくお聞きする言葉があります。それは『責める』言葉です。

 ・ Aさんはいつも威張っている
 ・ Bさんは全く周りを見ていない
 ・ Cさんは私のことを分かってくれない
 ・ Dさんは全然仕事をしていない
 ・ Eさんは勝手なことばかり言ってくる
 などなど…。

 ここで誤解していただきたくないのですが、『こんなことを言う人は、他人のせいにしてばかりいるダメな人だ』と言うつもりはさらさらありません。ここで人の道や道徳を説きたい訳でもありません。

 そうではなくて、これらの言葉を口にする時に、私たちに何が起こるのかを見ておきたいのです。

 上記のような『責める』言葉を使うときに、私たちに何が起こるのでしょうか?

 『Aさんはいつも威張っている』と言うとき、その後に続く言葉は何でしょう? たとえば『だから私は辛い』とか『だから私はイキイキと自分らしい仕事ができない』などといった言葉ではないでしょうか?

 もしそうだとすると、「辛い」とか「自分らしくいられない」という『私の状況』を、Aさんがつくり出していることになります。

 つまり、自分の状況がAさん次第で決まることになります。と言うよりは、もっと正確に表現すると、自分の状況がAさん次第で決まることにしています。『自分の状況を自分では決められない』という状況を自らつくり出している、ということになるのではないでしょうか。

 もう一例、見てみましょう。たとえば『Bさんは全く周りを見ていない。だから私はいつも大変な役回りだ。』と言うとき、『私の大変さはBさんのせいなのだ。』と言って責めています。責めるだけなら、人間関係が多少気まずくなる程度で済むかもしれません。が、大事なのはその次の思考です。そこで終わらずに、『だから私が大変な役回りにあるのは、仕方がないことなんだ』と決め込んでしまう、そういった発想におちいっていないかということです。そこにおちいると、私たちは自分の状況に手が打てなくなります。

 『上司のCさんは私のことを分かってくれない。だから、私は思い通りの仕事ができない。』これも同じですね。『私が思い通りの仕事ができないのは、Cさんのせいだから仕方がない』という思考におちいっているとすれば、自分の本来の持ち味を発揮する大事なチャンスをみすみす失っています。

 『他を責める』ことで私たちが得られるものは何でしょうか? それは『自分のことなのに自分で手が打てない』という状況かもしれません。

 考えて見れば、これほど大きなストレスもないのでは…?



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第6回 <自分を責めることの落とし穴> (2007/12/25)
 
 前回は<他を責めることの罠>についてお話しました。『他を責める』ことで私たちが得るものは、『自分のことなのに自分で手が打てない』という状況。つまり、『他を責める』ことで私たちは主体性を失ってしまう羽目になる、というお話でした。  考えて見れば、これほど大きなストレスもないでしょう。

 じゃあ『あいつが悪いのでなければ私が悪いのか?』 『他を責める』のでなければ『自分を責め』ればよいのか? 私たちの多くがそうであるように『いい悪い』で考える習慣がついている場合には、こんなふうに短絡的に考えたくなりますが、実はそこにも落とし穴があります。

 この連載の第3回『自分を否定すると成長する?』では、『自分を否定する』とその否定した内容が生き続けるというお話をしました。たとえば『肥っている』自分を否定すると、『肥っている』自分が反発を感じてしまい、かえって肥った状態が続きます。『怠け者』の自分を否定すると、『怠け者』である状態が続くのです。

 今回は、『自分を責める』ことがつくり出す落とし穴を、前回との絡みの中で見ていきます。

 前回、『何かを責め続けているとしたら、解決に向かうこともない。結果としてそれがストレス過剰を生む。』というお話をしました。そして『他を責める』際にどんな心の仕組が働くかを見ました。

 これと全く同じことが、自分を責める場合にも起こるのです。

 たとえば、周囲で次のような言葉を聞くことがありませんか?

・ 私は人前で話すのが苦手だから…
・ 私は行動力がないから…
・ 私は短気だから…
・ 私にはこの分野の経験がないから…
・ 私はどうも周囲の状況が読めないから…
 などなど…。

 ここで誤解していただきたくないのですが、『こんなことを言う人は、ネガティブなことばかり言っているダメな人だ。もっとポジティブになるべきだ』などと言うつもりはさらさらありません。

 そうではなくて、これらの言葉を口にする時に、私たちに何が起こるのかを見ておきたいのです。前回と全く同じです。

 上記のような『自分を責める』言葉を使うときに、私たちに何が起こるのでしょうか?

 『私は人前で話すのが苦手だから…』と言う時、その後に続く言葉は何でしょう? たとえば『上司の要求水準の仕事ができない』とか『この場ではイキイキと自分らしくいられない』などといった言葉ではないでしょうか。

 もしそうだとすると、「仕事ができない」とか「自分らしくいられない」という『私の状況』を、私の『話す力がないこと』あるいは『引っ込み思案の性格』が生み出していることになります。

 つまり、自分の状況が自分の能力や性格次第で決まることになります。と言うよりは、もっと正確に表現すると、自分の状況が自分の能力次第、性格次第で決まることにしています

   こんな場合やっかいなのは、往々にして『自分の能力や性格はどうしようもない、変えられない』と思い込んでしまっていることです。
 『私はやりたいけど、私の性格がじゃまをする。だからどうしようもない。』という訳です。

 これではやはり、『他を責める』場合と全く同じように、『自分の状況を自分では決められない』という事態を自らつくり出している、ということになるのではないでしょうか。

 これは『私は低血圧だから朝起きられない』というのと似ています。『低血圧は身体のことだから自分ではどうしようもない。だから私が朝起きられないのは仕方がない』という論理です。 しかし、この論理がおかしいのは次の質問をすれば明らかです。『では低血圧の人は全員が朝起きられないのですか?』

 同じように、『私は行動力がないから…』と言って自分を責める人は、当然ながらなかなか行動しないでしょう。

 実はこんなとき、自分の中に2人の人間が生まれているようです。『行動できない自分』と『それを責めている自分』です。

 つまり、『自分を責めている』と言いながら、実は自分の中の他者を責めています。そして、『行動できない自分』は悪い人、『それを責めている自分』はいい人、という図式ができています。

 だから自分を責めているようですが、実は『自分はいい人』になっているわけです。『自分を責める』ことは機能しないはずなのに、なかなかやめられないのには、こんな思考のからくりが働いているからでもあります。これが私たちが持っている巧妙な手口です。

 『自分を責める』ことで私たちが得られるものは何でしょうか? それは『他を責める』ときと全く同様に、『自分のことなのに自分で手が打てない』という状況かもしれません。

 やはり、これほど大きなストレスもないのでは…?



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第7回 <『否定』の対義語は『肯定』ではない?> (2008/1/22)
 
 前回までを大きくまとめてみましょう。ストレス最大の原因の一つは『責任を取らされる』という意識。これを『自分から責任を取りに行く』と捉え直すことで私たちはパワフルに動けるようになります。

 そのためには、@『原因』を探るよりは『解決のイメージ』を探りましょう A『いい悪い』の判断を続ける自分のあり方を見直すために、そんな自分を観察し続けましょう B『他を責める』のも『自分を責める』のも、結果としては自分の主体性を失う羽目になり、それが大きなストレスを生むことになります、というお話をここまでにさせていただきました。

 ここまでのお話の根本に流れているのは、一言で表現すると『否定は機能しない』ということです。

 私たちは否定されることに強い拒否反応があります。このままの自分でいるのを否定されることを、何よりも嫌がります。

 ありのままの自分を否定されることは、命を否定される恐怖にも通じているようです。否定されることへの恐怖は、生物としての生存本能と言ってよいかもしれません。それほど強烈です。

 それでは、『否定が機能しない』としたら、どうすればよいのでしょう? 『否定』の対義語は何でしょう? すぐさま浮かんでくる言葉は『肯定』です。

 それならすべて肯定すればよいのでしょうか? ここにもワナが潜んでいます。実は『否定』の対義語は『肯定』ではない! と言ったら驚かれるかもしれません。学校の国語の試験問題なら、もちろん『肯定』と『否定』は対義語です。

 ところが、私たちの生き方に関しては、どうもそうは言えなさそうです。たとえば私たちが「正直」を肯定すると、同時に「不正直」は否定されるでしょう。「愛」を肯定すると、同時に「憎しみ」は否定されるでしょう。能力の高い人を肯定すると、能力の低い人は否定されるのではないでしょうか。

 つまり、「あるもの」を肯定すると、同時に「そうではないもの」を否定することになります。『肯定』の裏側には必ず『否定』が生じてしまう。肯定と否定とは同時に存在してしまう。だから「すべてを肯定する」ことなんて実は論理的に成り立たないのではないでしょうか。『肯定は否定の対義語』というよりは、『否定は肯定の裏側に常にあり続ける』と言ったほうがよいのかもしれません。

 だとすると、私たちの生き方として、『否定』の対極にあるものは何でしょうか? それは『否定』も『肯定』もすべて含めて『受け入れる』ということかもしれません。

 自分の「いいところ」も「悪いところ」もすべて含めて受け入れられたとしたら、こんなに安らかな気持ちはないのではないでしょうか。

 他者の「いいところ」も「悪いところ」もすべて含めて受け入れることができたとしたら、その人があなたに対して抱く信頼感は、次元の異なるものとなるでしょう。

 周囲の事柄に対して「いい」も「悪い」もなく、すべて含めて受け入れることができたとしたら、ストレスで苦しむことなどなくなってしまうかも…。


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第8回 <『すべて受け入れる』なんて無理?> (2008/2/05)
 
 前回は、私たちのあり方として『否定』の対極にあるものは、『肯定』ではなく、『否定』も『肯定』もすべて含めて『受け入れる』ことだ、というお話でした。それは『受容』と言ってよいかもしれません。

 自分や他者を『否定』しても機能しないし、かといって『肯定』したとしてもそれは否定の裏返しに過ぎないから…ということでした。

 自分の「いいところ」も「悪いところ」もすべて含めて受け入れられたとしたら…。 他者の「いいところ」も「悪いところ」もすべて含めて受け入れることができたとしたら…。こんなに安らかな気持ちはないのではないでしょうか。周囲の事柄に対して「いい」も「悪い」もなく、すべて含めて受け入れることができたとしたら、ストレスとは全く無縁の世界が待っているかもしれません。

 でも「そうは言っても、そんなこと不可能だ」という声が聞こえてきそうです。確かに『すべてを受け入れる』なんて、お釈迦さまやイエス・キリストならいざ知らず、私たち凡人が到達できるような境地ではないかもしれませんね!

 そこで『すべてを受け入れる』のはとっとと諦めて、『目の前の一つのことを受け入れる』ことを考えてみましょう。「すべて」ではなく「一つ」であれば、私たち凡人でも少しは何とかなるかもしれません。

 たとえば満員電車の中で、つり革につかまっているおばあちゃんを見つけたとしましょう。ふと見るとその正面には音楽を聞きながらマンガを読んでいる鼻にピアスをつけた高校生が座っています。この高校生はおばあちゃんに席を譲る気配は全くありません。あなたならこれを見てどう感じますか? この高校生を受け入れることができるでしょうか?

 こんなとき「何も感じない」という方は少ないでしょう。この高校生を「受け入れられる」と答える方はさらに少ないかもしれません。「どうして席をゆずってあげないのだろう?」「まったく近頃の若い人ときたら…」などと心の中で非難の嵐が起こる方も多いのではないでしょうか。頭の中で「なんてひどい子」という言葉がぐるぐると回り続けるかもしれません。

 ところがこんなことも考えられます。あなたがこの場面に出くわす前に、ひょっとしたらこの高校生は、おばあちゃんが乗ってきた瞬間、すっくと立ち上がって席を譲ったのかもしれません。そして、このおばあちゃんが「大丈夫、次で降りるから」と嬉しそうに断ったという可能性もあります。もしあなたがそのことを知ったとしたら、あなたの中でこの高校生はとたんに「いい子」に早変わりするかもしれません。

 こんなふうに私たちは、同じ状況を見ても、その背景次第で「いい人」「悪い人」の判断がころころと入れ替わります。そのたびに「受け入れられたり、受け入れられなかったり」が起こります。言うまでもなく、それは私たち一人ひとりが自分の価値観を持っているからです。

 ふつう私たちは、自分の価値観に「全くそぐわない人や状況」を目の当たりにした時、それを『あってはならないもの』と決め込んでしまいがちです。そうなると当然『受け入れる』ことなんて不可能でしょう。頭の中を責め言葉が渦巻きます。ここに大きなストレスが生じるのです。

 こんなとき私たちは目の前の人や状況に対して、「価値観というメガネ」を通して「いいor悪い」の軸で評価・判断をしています。この軸があるからこそ結果としてストレスが生じるのだと言ってもよいでしょう。

 だとすれば、「いい悪い」の軸とは異なる軸を持つことができたら、ちょっとは違いがつくれるかもしれません。その軸の一つが「在るor無い」です。

 つまり、気になっている目の前の事柄が『事実として存在する』のか『存在しない』のかを見ていきます。この例で言うと、満員電車の中でつり革につかまっているおばあちゃんの正面に、音楽を聞きながらマンガを読んでいる鼻にピアスをつけた高校生が確かに座っています。これは紛れもない『事実』として『在る』わけです。この高校生の姿を『事実だ』と『受け入れる』ことは誰にも可能でしょう。というより、目の前の『事実』であることに間違いありません。

 つまり私たちは、自分の価値観からは『受け入れられない』人や状況に対しても、少なくとも『事実として受け入れる』ことは可能です。

 そしてこの『事実として受け入れる』ことは、実はパワフルさを生み出します。受け入れることで私たちは現実を扱えるようになるからです。
 つまり事実として受け入れたら、次にやることはその解決のイメージを探ることです(コラム第4回参照)。 この場合、おばあちゃんの気持ちを確認することが大事だと思えば話しかければよいし、そこで席を確保する必要があると思えば周囲の人に声をかけることもできるし、そこまで動く必要もなさそうだと判断すればそのままにしておくこともできるし、選択肢はそれこそ無限にあります。

 逆にこの状況を『あってはならないもの』と捉えると私たちは途端に弱くなってしまいます。現実を否定するということは、現実を扱うことから逃げてしまうことになるからです。この場合私たちはその高校生を責めるだけで終わってしまうでしょう。自分も辛くなります。

 『すべてを受け入れる』なんて考えなくても、目の前の一つのことを『事実』として『受け入れる』ことなら私たちにも可能ではないでしょうか。そして解決のイメージを探り行動に移ります。

まず身近なことからトライしてみませんか?



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第9回 <『事実として受け入れる』ことで自由が生まれる> (2008/2/19)
 
 前回は、『すべてを受け入れる』なんて無理だとしても、目の前の一つのことを『事実』として『受け入れる』ことなら私たちにも可能である、そうすることで私たちは、現実を扱うパワーを持てるようになる、というお話でした。
 皆さん、身近なことを通してトライしてみましたか?

 さて今回は、『事実として受け入れる』ことが、私たちの人生にとってさらに素敵な結果を生むことになる、というお話です。

 前回、例としてあげたのは、満員電車の中でつり革につかまっているおばあちゃんと、その正面で音楽を聞きながらマンガを読んでいる高校生のお話でした。
 こんなとき、席を譲る気配の全くないこの高校生を見て、「どうして席をゆずってあげないのだろう?」「なんてひどい子」という言葉があなたの頭の中でぐるぐると回り続けるかもしれません。

 こんなふうに目の前の一つの出来事が『受け入れられない』とき、そこには必ず自分の価値観や信念などがかかわっています。
 つまり周囲の出来事を「いいor悪い」の軸を通して評価・判断をしているわけです。この軸があるからこそ、非難したくなったり、結果としてストレスが生じたりします。

 そんなときはまず、その「出来事」が『事実として在る』のか『無い』のかを明確にするというのが前回のお勧めでした。

 たとえばあなたに4歳と9歳の子供がいるとしましょう。そして「上の子が下の子をいじめた」現場に出くわしたとしてみて下さい。  そんなとき私たちはたいてい、すぐに上の子供を叱ろうとするのではないでしょうか? ここで一歩引いて、別な選択肢を取ることも可能なはずです。その「出来事」が『事実として在る』のかどうかを確認する、というのもその一つです。

 まずここで目の前の『事実』を見ると、上の子供の前で、下の子供が大泣きをしています。大泣きしていること自体は『事実として在る』でしょう。しかし、この時点で「いじめた」と受け取るのは『事実』というよりは『解釈』に過ぎないかもしれません。

 そこでさらに『事実』を探ってみると、「下の子供が上の子の大切な手紙を破ろうとしていたので、上の子が急いで取り上げた」と判明したとします。
 こうなると「上の子が下の子をいじめた」という「出来事」は『事実として在る』とは言えなくなります。

 それなのに私たちはこんな場面で自分の『解釈』に過ぎないものを『事実』だと思い込んで、「どうしていじめるんだ」と上の子供を強く叱ってしまったり、「どうしてこんな子に育ったのか」と自分の子育てを嘆いてみたりしがちです。これではストレスが大きくなるばかりです。
 こんなふうに、ストレスは私たちの『解釈』から生じることがとっても多いものです。
 『事実として在る』のではないと分かれば、そんな『解釈』つまり『無駄な思い』は、さっさと捨ててしまえばよいだけです。

 さて大事なのはここからです。この場面で、「下の子供が大泣きしている」のは『事実として在る』わけですが、にもかかわらず、たいていの親はこれを事実として受け入れがたいようです。
 なぜなら自分の子供が大泣きしていることに耐えられないからです。そして「あんたが悪いんでしょ」と逆に下の子を叱ったり、「いつまでも泣いてるんじゃない」と怒鳴ったり、飴をあげて泣きやませようとしたりと、八方手を尽くします。
 こうなると親にも大きなストレスがかかってきます。そして「あんたたちのせいで私はほんとに大変だ」と子供を責めたくなりますが、実はこんな状況を生んでいるおおもとは自分の思考にあるのだとは、ふつう気づきません。

 ちょっと深呼吸してみましょう。そして「大泣きしている」のが確かに『事実として在る』のならば、『これは事実だ』といったん受け入れましょう。

 そしてその際に、お勧めしたいことがあります。それは、目の前に繰り広げられている状況が『事実』であるにもかかわらず、その事実を『あってはならない』ものとして受け入れがたいとき、そこにある自分の価値観や信念がどんなものなのかよく観てみることです。

 子供の大泣きにイライラしてしまうこの親の場合、「泣いてはいけない」という価値観か信念のようなものが、どこかに潜んでいるのかもしれません。

 そしてそれが見えてきたら、その自分の価値観や信念が、持ち続けるに値するものであるかどうかを探ってみましょう。

 本当に「泣いてはいけない」のでしょうか? どうして「泣いてはいけない」のでしょうか? 子供は「泣くな」と言われればよけいに泣き続けるのではないでしょうか。逆に心ゆくまで泣いてしまえば、その後ケロッとして遊び始めるのではないでしょうか。悲しいときや悔しいときには誰だって泣きたいものです。
それを我慢して感情を抑える意味はあるのでしょうか?…などと探ってみるのです。

 そうすると「別に泣いても構わない」と思い始めるかもしれません。だとすれば、ひょっとしたら、子供の悲しい気持ちに寄りそって、子供のその気持ちをしっかりと受け取ってあげることができるかもしれません。

 こんなふうに、自分の価値観をもう一度よく吟味してみると、実はそれほどこだわるほどのものでもないと気づく場合も出てきます。そうなれば私たちは、自分の価値観を見直し創りかえることさえ可能になるでしょう。
 それが、このコラムの第2回と第3回で触れた、『いい悪い』を判断している『自分を観察する』ことの、もう一つの意味でもあります。

 自分の価値観さえも自分で創りかえることができるとしたら、私たちはなんて自由な存在となることでしょう。
 『受け入れられない』という一見辛い状況の中には、そんな素敵なチャンスが隠れているかもしれません。



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第10回 <ただ観察し続けることで 生まれるもの> (2008/3/4)
 
 いよいよこのコラムも最終回を迎えました。ここまでおつきあいいただいた皆様、本当にありがとうございます。
 さて今回は最終回にふさわしく、これまでの流れ全体を俯瞰してみましょう。これまでに扱った項目を一覧表にすると、おおよそ以下のようになります。



 このように一覧すると私たちは、左側「ストレス過多のコミュニケーション」をやめて、右側の「ストレス・フリーのコミュニケーション」を身につけよう、というふうに受け取りたくなります。ところが、そんな受け取り方をすると、その途端「イイor悪い」の評価に入り、自分を否定して、現実が扱えなくなる、というワナにおちいってしまいます。

 こんなふうにちょっと気を抜くと、私たちはすぐに「イイor悪い」に入っていきます。なぜなら私たちはそういう存在だからです。コトバを使って生きる限り、そこから完全に自由になることはないでしょう。

 だから、いっそのこと、自分がそんな存在であることを丸ごと受け入れてしまってはどうでしょう? というのがこのコラムでのご提案です。
 この表の左側のパターンも右側のパターンも、両方共に持ち合わせている存在として自分が『在る』ことを受け入れてみるのです。自分がこんなふうに二面性を持ちうる存在であることを『事実』として認識する、ということです。

 そうすることで、たとえ自分が自身を責めたり他者を責めたりした結果として現実が扱えなくなって辛くなっているとしても、そんな状況にいる自分自身を責めることなく、否定するでもなく肯定するでもなく、ただ観察し続けてみる。
 責める自分がいたとしても、それをただ眺めてみる。もし、責める自分を振り返って責めてしまっていたら、「責める自分を責めている自分」をただ眺めてみる…というふうに続けてみるのです。

 現実が扱えなくなるワナ、「イイor悪い」のワナ、否定のワナから自由であるためには、そんな自分を観察することが機能します。
 前回お話したように、観察し探求することで、私たちは自分の価値観や信念からも自由になれるのです。

 このコラムは『ストレス解消のコミュニケーション』というタイトルで進めてまいりました。が、ここまでお読みいただくとお分かりの通り、実は「ストレスさえも否定する必要はない」ということです。他のもの同様、「イイ悪い」の対象にする必要は何もありません。

 そして上の表をあらためて眺めていただくと見えてくるかもしれませんが、ここまでこのコラムで一貫してきた前提があります。それは「思考が感情を生む」ということです。
 これまで見てきたとおり、「責任を取らされている」と考え、問題の原因を探り、「イイ悪い」の判断を下し…という一連の思考によって、私たちは「悲しい」「苦しい」「辛い」状況を生み出しているわけです。

 そこで自分を観察し続けるとどうなるか? とても面白いことが起こります。それは、自分の思考が感情を生み出す瞬間をつかむことができるようになるのです。
 「今、自分が○○と考えた ⇒ その結果、自分に△△という感情が芽生えた」という瞬間、瞬間をつかまえることができるようになります。こうなると、自分の感情とともにいることが私たちに限りない豊かさをもたらしてくれるようになります。

 私たちは二面性を持っています。いや、二面性というより、多面性と言ったほうがよいのかもしれません。ちょっと自分を観察してみると気づくことですが、私たちは自分の中に無数の人格を持っているようです。

 失敗をしてしまった人を許す寛大な自分がいるかと思えば、ほんのささいなことで腹を立てている自分がいたり、そんな自分に気づいて悲しくなってみたり、笑ってみたり、あるいは暴力には絶対反対と言いつつ、暴力をふるう人に暴力で立ち向かってみたり、気づかぬうちにとっさの場面で暴力を振るってしまったり、自然をいとおしく思いながら、環境破壊に加担していたり、それでも環境破壊の現場を見ると許せなくなったり…、などなど数え上げればきりがありません。

 自分の中に、無数の自分がいます。笑ったり泣いたり、楽しんだり悲しんだり、苦しんだり悩んだり…。そんな無数の人格に翻弄されながら、私たちは日々の生活を送っています。

 そんな無数の自分を観察し続けるうちに、とても素敵なことが起こる可能性があります。それは、その過程を通して、キラリと輝く本当の自分が見つかる、という可能性です!



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鴨林由明先生のご紹介

【ご経歴】
 1957年宮崎県生まれ 小中学生・高校生の学習塾経営、大学受験予備校の講師を経て、現在、企業研修講師、およびプロコーチとして活躍中

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リーダーズコミュニケーション
 http://www.l-communication.net/

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