第10回_EU REACH規則が「簡素化」の噂?

日本国内企業向け化学品の混合物メーカーで、国内商社に販売しています。顧客の商社からはEU REACH規則が「簡素化」されると聞いていますが、状況を教えてください。

EU REACH規則の「簡素化」は、手続き自体は簡素化されるものの、企業負担の軽減につながるわけではありません。むしろ、運用面では厳格化が進むため、実務対応が楽になるわけではありません。

簡素化は「規制緩和」ではなくTrump2.0の政策対応、中国との競争対策として、「EU化学産業を世界で最も効率的かつクリーンな産業へと近代化するためのインフラ整備」として、2025年12月にREACH 2.0(案)として具体化しました。簡素化の主な目的は、以下のとおりです。

(i)化学産業を「クリーン産業協定」の核心と位置づけ、繁栄を支援する。
(ii)米中に対し、規制の「質の高さ」と「手続きの速さ」の両立で対抗する。
(iii)DPP(デジタル製品パスポート)やOSOA(1物質1評価)を導入し、アナログな事務負担をテクノロジーで解消する。

2026年4月に、簡素化はREACH規則の抜本的改正でなくても目的が達成できるとして、REACH 2.0は棚上げになりました。この辺りの状況を以下ご説明します。

1. REACH規則「簡素化」の経緯

2024年7月18日に、2期目を目指すウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長候補が、EU議会の本会議で優先事項(プライオリティ)を示す指針として、“Europe’s Choice: Political Guidelines for the next European Commission 2024-2029”(ヨーロッパの選択:次期EU委員会(2024年~2029年)(*1)に向けた政治指針)を提示しました。この指針で、繁栄と競争力を最優先事項とし、REACH規則の簡素化と「永遠の化学物質」、すなわちPFASに関する明確化を目指した、新たな化学産業対策パッケージが提案されました。「クリーン産業協定(Clean Industrial Deal)」の構築や、中小企業に配慮した「既存規制の負担評価と簡素化」についても、この指針の中で最初の100日以内のアクションとして明記されています。2025年2月26日のクリーン産業協定(COM(2025) 85 final)(*2)で、「2025年後半に採択予定の“化学産業パッケージ(Chemicals Industry Package)”は、化学セクターが「産業の中の産業(あらゆる産業の基盤)」であり、極めて重要な分子(物質)を扱うという戦略的役割を担っていることを認識するものである。」としています。クリーン産業協定は、Trump2.0によるアメリカファースト政策を受けて、産業協力強化が盛り込まれています。

クリーン産業協定により、REACH規則の抜本的改正(通称:REACH 2.0)(*3)で、以下などについて検討されました。

(i)登録有効期間を統一して10年
(ii)ポリマー登録の新規制
(iii)ナノ材料の管理明確化
(iv)コンプライアンス審査の強化
(v)認可・制限プロセスの簡素化と最適化
(vi)サプライチェーンのデジタル化(DPP・電子SDS)
(vii)国境を越えた規制協調と税関審査の強化

2.化学物質政策の大転換

EUの化学物質政策は大きな転換点を迎えています 。これまで進められてきた「規制強化一辺倒」の姿勢から、EU域内産業の「競争力維持」と「実務的効率化」を重視する方向へと舵が切られました。この潮流で、2026年4月27日にEU委員会のJessika Roswall委員(環境担当)によって表明されたREACH 2.0の事実上の棚上げ(立法提案の見送り)(*4)です。

2.1 全面改正の見送りと「Not open REACH」の真意

当初、EU委員会は「REACH revision 2025」として、登録要件の更新、ポリマーの登録義務化、認可・制限プロセスの抜本的改革などを含む野心的な改正を計画していました 。しかし、最新の声明では「現時点ではREACHを開かない(not open REACH at this point)」という表現が使われています。この「開かない」という言葉には、単なる延期以上の意味が含まれています。

(a)抜本的改正の停止:審議に数年を要する大規模な法改正プロセスをストップさせました。
(b)法的確実性の優先: 条文修正による不透明な状態を回避し、産業界に「基本ルールは当面変わらない」という安心感を与え、投資や事業計画の予見可能性を確保する狙いがあります。
(c)運用による解決へのシフト: 本法(基本法)を書き換えるのではなく、附属書(Annex)の修正やデジタル技術の活用によって、実務的な課題を解決する方針へ転換しました。

2.2 方針転換の政治的・経済的背景

この転換の背景には、高騰するエネルギー価格や複雑な地政学リスクに直面するEU化学業界の危機感があります。過度な規制コストは米国や中国に対する国際競争力を削ぎ、製造拠点の流出(カーボンリーケージならぬ規制リーケージ)を招く懸念があるため、フォン・デア・ライエン委員長が掲げる「環境保護」と「産業の繁栄」の両立という原点に立ち返った結果といえます。

3. 改定案の中止に伴う「楽になる」ポイント

今回の決定により、日本企業にとっても新規コスト負担が当面回避されることになりました 。

(a)ポリマー全面登録義務化の回避: 膨大な試験費用と事務負担が予想されていたポリマー登録が棚上げとなりました。
(b)登録有効期限の導入見送り: 検討されていた「10年ごとの一律更新義務」が導入されないこととなり、継続的な事務負担増を免れました。
(c)既存枠組みの維持: 大規模な制度変更に伴う不確実性が消え、これまでの対応スキームを継続することが可能になりました。

4.実務的なハードルの質的変化

「簡素化」は決して「規制の緩和」を意味しません 。むしろ、手続きを簡素にする一方で、既存ルールの「執行」と「データ精度」はかつてないほど厳格化されています。

4.1 輸入品に対する監視の強化

EU委員会は、輸入品に対する順法確認を税関と市場監視の両面で強化することを鮮明にしています。これは、高い規制基準を守る域内産業を守るための「実力行使」の側面があります。
具体的には、輸入業者が通関時にSDSを提供し、登録番号や認可番号の自動検証を受けるシステムの構築が進められています。

4.2 PFAS等の個別制限の加速

REACH規則の改正は無くなりましたが、PFASなどの特定の懸念物質に対する制限案は、現行法の枠組みの中で引き続き迅速に進められます。

4.3 登録データの精度向上

ECHAによるコンプライアンス審査は強化されており、不備のある登録文書(Dossier)への是正勧告や、登録番号の取り消しリスクが厳格化されています。

5. デジタル化がもたらす新たな義務:DPPとOSOA

今回の「簡素化」パッケージにおいて、最も重要な実務的宿題が「デジタル対応」です。

5.1 デジタルプロダクトパスポート(DPP)の影響

エコデザイン規則(ESPR)に基づくDPPの義務化は、サプライチェーン管理に革命的な変化を迫ります 。
(a)能動的な情報開示: 顧客からの依頼に応じる「受動的」な対応から、出荷時には既にデジタルデータが完成している「能動的」な体制への移行が必要です。
(b)開示対象の深化: 従来の閾値0.1wt%だけでなく、リサイクル阻害物質や微量のPFAS含有有無、さらにはカーボンフットプリント(PCF)などの環境負荷まで、デジタル署名と紐付いた精緻なデータが求められます。

5.2 OSOA(One Substance, One Assessment)

2026年1月より本格始動したOSOAは、REACH規則やRoHS指令など異なる規制間での評価の重複を排除する仕組みです 。これにより企業側のデータ提出の二度手間は削減されますが、一度提出されたデータが横断的に利用されるため、情報の正確性がより一層重要になります。 EUが「データの効率的運用」へシフトしたことによりCMP(製品含有化学物質・資源循環情報プラットフォーム)構想(*5)がDPP対応ツールとなります 。日本企業は、chemSHERPA等の既存データをデジタル基盤(CMP/DPP)へ統合する体制の構築が必須となります。

まとめ

〇REACH 2.0は止まっても、PFAS等の個別制限は現行法の枠組みで加速するため、代替技術の開発を緩めてはならない。
〇chemSHERPA等の従来ツールを超え、DPP(デジタルプロダクトパスポート)を見据えた「構造化データ」としての管理体制を構築する必要がある。
〇新たなツールとして、CMP構想がある。
〇税関での自動検証システム構築が進むため、輸出時のSDSや登録番号の正確性は、単なる事務書類ではなく「通関の鍵」となる。

引用
*1:Europe’s Choice
https://commission.europa.eu/document/download/e6cd4328-673c-4e7a-8683-f63ffb2cf648_en
*2:クリーン産業協定
https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/?uri=CELEX:52025DC0085
*3:REACH 2.0
https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/speech_25_2243
*4:立法提案の見送り
https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/speech_26_897
*5:CMP構想
https://cmp-consortium.com/cmp

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